普通に日常思っていることです。

果物とか野菜とか、フレッシュなものを口に入れたい。噛み付いたときに口の中に広がるその食物が持つ水分を摂取したかった。今のあたしには彼らの生命力が必要。
動物は目や耳や脳みそがあって人間と似ているところがあるし、体温があって触れたりしてその存在を感じることが出来るのだけれど植物はちょっと違う。

陽の光を浴びて神々しく煌いてみたり、話しかけることで葉の緑が生き生き濃くなったりそういう生き物で、ちゃんと魂を持っている。

と、あたしは思って黙って静かに揺れる植物とかをよーく眺めています。
わかりやすいのがサボテンなんだけど、サボテンはただ水をやったりとか植え替えたり肥料をやったりするだけでは死んでしまう。十分に水を蓄えた葉肉を腐らして土に還り、人間で言う骨だろうか、白く艶やかだった棘を茶色く枯らして死んでいく。

いろんなサボテンがあるけどあたしが育てていたサボテンはまあるくて綿のような棘を持ったサボテンでまるい中身は脳みそじゃないかとある日思ったのだ。マニュアルどおりに世話をしながら花が咲くのを待ちわびていて、いっこうにつぼみもつけないサボテンに飽きてきたころ汚い緑色に変色して皺皺でぐんにゃりしてしまった。
どうして、どうして、と思いながら花屋で聞いてみるとやっぱり生き物なんだ、という結論に達した。
しわしわの瀕死のサボテンに早く元気になれよと強く思いながらただただ話しかけて今日は天気がいいから日光浴しようかとか、元気になったサボテンにしてほしいこと(花をみてみたい)を一方的に心で語りかけたりしわしわで元気がないのに棘だけは立派にあたしを刺すものだから放置した私に怒っているんだと思って「ごめんね」とまで思った。
少しずつ回復してきたサボテンは真夏に黄色い花を丸のてっぺんに咲かせた。それも突然!
「ほら、これがわたしの花!黄色くて綺麗でしょ?」と言っているように思えた。というか、絶対に言っていた。きっと傲慢な性格でほめてもらうことが大好きな高飛車な女の子だったんじゃないだろうか。5年後、そのサボテンはいわゆる寿命と言うのを全うして死んでいった。飽きて皺皺にさせたときとは明らかに違う、美しく朽ちた。棘ひとつ残さず土に還った。

これを経験したのが中学生のときで自宅にあるほかの植物のことも感じたり、聴診器で幹の水を吸い上げる音を聞くようになってその生命と魂を感じるようになった。
枯れたり花を咲かせたりするにはなにか理由があるんじゃないか、それは科学とかそういうものでは説明できない生き物の鼓動というか意思のようなもので気づいてあげなければただ共存する風景として時間という残酷なものに流されていくだけ。
果てしない想像に尽きないけれど、地球が誕生して生命が生まれて人類が進化していったのも基を辿れば同じなのだからその意味を忘れたり無駄にしたり見逃してはいけない気がする。人はこうして文章にしたり声にしたり、動物だって鳴き声をあげたり独特のサインがあるのだから植物だって同じように感じなくては人間でいることが罪だと思う。
植物特有の病気があったりするのも人間が病気にかかるのと一緒だ。

たとえば時間に追われて数字に追われて人間の生み出した生きるスピードに乗っている人でそれが普通になっている人もいる。空を見上げて立ち止まる人や、花を見て綺麗だと思う人や、犬に話しかける人そういう人々はきっと人が作り出した時を刻む世界と全ての生命の声が木霊する天国みたいに美しく柔らかい世界を行き来してる。
テレビだとか、マグカップだとかそういうものにまで何かを感じることはないけれど、たとえば土に根をはって生きる植物以外にも、もぎ取られた果実や野菜にも口の中に広がった果汁や何かでほとばしる最後の叫びというのを感じられずにいられないのは、私だけだろうか。
まるかじりしたときのあの満たされる感じは、人間の誰にでもないその生命に深く敬礼したい。